オーストリアのヨーゼフ・ローゼンタール金物製作所(Metallwarenfabrik Josef Rosenthal 、MJR)が1920年頃から1992年まで生産していたキャンプ用のストーブとランタンのブランドである。燃料にはホワイトガソリン及び灯油を使用する。かつては多くの山岳部で使用されたが1992年に生産が中止され、その後榮製機から復刻、販売された。
あまりに有名になった事から、ポンプでガソリンを圧縮し、気化したガスを細いノズルから噴出させ点火するコンロ全般を指す人もいる。
プレヒート(点火の前に暖める)が必要。
プレヒートにはスイスメタと呼ばれる小さな固形燃料などが必要である。
古いスカウティング誌には「ボエン問答」というのが連載されていたが、この「ボエン」という言葉は、大阪の言葉で、これがスカウト用語として仲間の間だけで特殊な意味に使われだしたのは大正14年の秋ごろからであり、スカウト出身の小寺進という早稲田大学の学生が使い始めたといわれる。
大正14年に佐野常羽氏がギルウェルパークから帰られ、日本で初めて指導者実修所が山中湖畔で開設されたとき、小寺氏を含めて8名が大阪から入所した。
実修所修了後、実修はこれからだということで大阪第1ローバースカウト隊を結成し、その仲間が大阪の阿波座にある小寺氏の家を集会場として毎月集まって盛んにスカウティングについて討議しあい、研修していた。
ある時、小寺氏が誤った考えを述べたところ、仲間の一人がひらきなおって猛烈につっこんだとき、小寺氏は自分の考えが間違っていたことに気がついて「やられた。ヒョコタン、ボエンとやられた。」と、頭をかいたときの仕草がまことにユーモラスでスカウト的であったので、これが仲間に愛用されるようになった。但し形容詞のような「ヒョコタン」は省略されて「ボエン」だけが残った。
これが全国に広まって「ボエンを食らわす」とか「ボエンをいただいた。」というように使われ始めた。この意味は、自分が気づかなかった盲点を仲間から忠告してもらう、また忠告してあげるとか、天狗になりかけている鼻を互いに折りあうとか、年長者に対して進言するとか、若い者に向かって、タルンでいるのを苦言するとか、率直に言いにくいことを言い合うという意味である。
剣道で言う「1本参る」とか「叩き合い」と同じ心境である。
ボエンを受ける方も素直に受けることが大切で、悪意にとったり感情的になったり弁解するなどは未熟といわねばならない。
ボーイは少年であり、スカウトは斥候、先駆者、道のないところに道を発見して進む人という意味で、世の中の開拓者、自ら率先して人生を切り開いていくパイオニアを表す。
この名称は世界共通である。ボーイスカウト運動は、イギリスのベーデンパウエルが始めた、健全な青少年の育成を目的とした世界的な社会教育運動である。
広い意味ではビーバースカウト、カブスカウト、ボーイスカウト、ベンチャー(シニアー)スカウト、ローバースカウトをさす。
また、ボーイスカウト運動をさすこともある。
部門別に分類すると、小学校6年生から中学校3年生までの部門であり、小学校5年生9月以後、中学校3年生以下の少年はボーイ隊に仮入隊し見習いスカウトになることができる。中学校を卒業したのちはボーイスカウトとして留まることはでさない。
イギリスのベーデン・パウエルによって始められた、健全な青少年の育成を目的とした世界的な社会教育運動。
ベーデン・パウエルの少年時代の経験と軍人生活の体験から、その当時、非行に走り、乱れていたイギリスの青少年達のために「実験キャンプ」を行い、その翌年「Scouting for Boys」を著した。それを読んだイギリスの少年達が自発的にボーイスカウトを作り、イギリス各地でボーイスカウトが広まった。
有名なアンノーンスカウトの話から、アメリカヘも伝わり世界的な運動となった。
ベーデンパウエルは、指導者の養成、訓練の必要性を感じ、ギルウェルパークに指導者訓練所を開いた。ギルウェルパークは世界の指導者訓練のメッカとなった。
続いてベーデンパウエルは年少者のために「Wolf Cubs Handbook」を著し、また年長の少年達のために「Rovering to Success」を著し、その結果、ウルフカブ(カブスカウト)、ローバースカウトが誕生した。
ベーデンパウエルは世界中を訪問し、ボーイスカウト運動が世界の平和に役立つことを説いた。1924年にはコペンハーゲンの宣言で、ボーイスカウト運動が世界的な運動であることを確認した。ベーデンパウエルはボーイスカウト運動によって、2度もノーベル平和賞の候補者に決定したが、世界大戦のため実現しなかった。
1981年にはボーイスカウト運動が「第1回ユネスコ平和教育賞」を受賞した。
→「ベーデン・パウエル」参照 →「実験キャンプ」参照 →「アンノーンスカウト」参照
1970年(昭和45年)7月、東京都三鷹市に建てられた。鉄筋コンクリート造り、地下1階、地上3階、敷地面積6,600平方メートル。
ボーイスカウト日本連盟事務局、需品部、ホール、講堂、会議室、研修室、資料展示室、図書室、食堂及び宿泊設備を有する会館。
新宿より京王線で「調布」駅下車。駅北口より、小田急バス「武蔵境」行きまたは京王帝都バス「武蔵小金井」行きに乗車、「飛行場入口」バス停下車。(または大沢橋下車)東へ徒歩5分の場所にあった。
2011年(平成23年)10月に移転。東京都文京区にある鉄筋コンクリート造り、地下1階、地上6階のビル。
ボーイスカウト日本連盟事務局、スカウトショップ、スカウトミュージアム、スカウトライブラリー、会議室等を有する会館。東京連盟事務局も入居している。
住所 〒113-8517 東京都文京区本郷1-34-3
TEL 03-5805-2561(代表)
FAX 03-5805-2901(代表)
1965年(昭和40年)2月25日より3月7日まで「毎日新開」に連載された、故三島総長のスカウティングに関する随筆。
三島総長が病床にあって筆をとられた絶筆であり、その年の4月20日に永遠の人となったのでこの随筆は三島総長の「最後のメッセージ」となった。「ボーイスカウト十話」は「ボーイスカウトとは」とも読める。
一話 「天皇陛下」
二話 「乃木希典」
三話 「後藤新平最後の言葉」
四話 「文明病とキャンピング」
五話 「三指礼か五指礼か」
六話 「プログラム・ピープル」
七話 「無名スカウトと無名戦士」
八話 「ローランド・フイリップス」
九話 「ハイキングの妙味」
十話 「弥栄 世界に広がる」
過去、日本のボーイスカウト運動に存在した保険制度。
公益財団への改組をきっかけにボーイスカウト運動にあった「そなえよつねに保険」を経て、現在は、加盟員が全員加入する「そなえよつねに共済」に移行された。
ボーイスカウト活動中に、スカウトまたはスカウト以外の第三者が、事故により死亡または負傷した際に、日本連盟、県連盟、地区組織、団及び指導者等の主催者が、法律上の損害賠償責任を負担することによって被る損害を保険金として支払うものである。
従って、スカウトに怪我をさせた場合でも、法律上の損害賠償責任が発生しなければ、この保険の対象とはならない。
てん補限度額は1名につき5000万円、1事故につき3億円が限度。(2003年現在)
免責金額は1万円。これは見舞金制度ではなく、あくまでも、法律上の損害賠償責任を負担した主催者側の損害を補てんする保険である。
ボーイスカウトの数が2個班を編成できない場合、適切な指導者を得て暫定的に団内に11名以内のボーイ班を設けることができる。
ただし、その期間は2か年以内である。
スカウトが資金を集めるため、1949年(昭和24年)にイギリスで始まったスカウト勤労行事週間のこと。v
仕事はジョブであり、1シリングのコインは、別名ボブと呼ばれたことから、毎年復活祭の日曜日を中心とした1週間にのみスカウトの勤労に対して、1シリングの報酬を求めそれを活動資金に当てた。
このスカウト勤労行事週間運動を日本で初めて開始したのは1962年(昭和37年)5月1日であった。
平生は報酬を求めず、奉仕を建前とするスカウト運動であるが、この週間に限り、家庭や社会の理解のもとに報酬を対象とする勤労行事を実施し、スカウト自ら活動資金集めに寄与した。
その報酬は、団(40%)、地区(20%)、県連(20%)、日連(20%)に配分された。
こうした成果が蓄積されて、後に、三鷹にあった旧ボーイスカウト会館の建設が促進された。
有志奉仕者のこと。
ボーイスカウトの指導者はすべてボランティアである。
もともと南米インデイアンの防寒具から変じて雨具になったもの。
夏の日にも身体が蒸れないこと、リュックを背負った上からでも着られること、グランドシートの代用をしたり、二枚組にして簡単なA型テントにすることができる。