ボーイスカウト日本連盟第4代総長(昭和26年2月より昭和40年4月まで)。
明治30年1月1日、東京麻布で生まれる。
父は子爵三島弥太郎、母は侯爵四条隆謌の三女加根子。
幼少の頃は病弱で病床に就くことが多かった。
文学への傾倒を深め創作活動と国文学の研究に勉める。
22歳で父弥太郎が死去し、子爵となる。
23歳の時「弥栄ボーイスカウト」を始める
25歳の時、少年団日本連盟を創立するに当たり、副理事長に選任される。
この後、後藤総長、二荒理事長の信任を得て組織確立の陣頭に立つ。第2回世界ジャンボリー、第3回国際会議に参加する。また、指導者訓練、さらに指導用の資料・文献の著述及び翻訳に努める。
28歳、ローランドフイリップス著「パトロールシステム」を翻訳する。
29歳、ベーデンバウエル著「少年団指導者教範(エイズツウスカウトマスターシップ)」編集。
32歳、貴族院議員に当選。その後、タイ、イタリアを訪問。著書も多数出版する。
48歳、文部政務次官に任ぜられる。
戦後はボーイスカウト再建のために努力する。指導者養成のため、自ら全国を回って指導者講習会を実施する。
52歳、戦後初めての日本連盟理事長に就任。中央実修所所長として指導も行う。同年、ボーイスカウト運動に専念するため参議院議員には立候補しないことを表明する。
また、栃木県西那須野町に所有の土地家屋(三島家の別荘)を日本連盟に譲渡する。これが現在の那須野営場である。
昭和26年、54歳の時、日本連盟の第4代総長に就任する。
同年、第7回世界ジャンボリー及び第13回世界会議に参加し、さらにイギリスのギルウェル実修所を修了する。<br>
昭和28年、56歳、日本連盟より功労章「きじ章」を贈られる。
昭和34年、藍綬褒賞を授けられる。
昭和36年、イギリス連盟より功労牽「ブロンズウルフ章」を贈られる。
昭和40年、毎日新聞社の求めに応じ「スカウト十話」を執筆連載するが、これが絶筆となった。
同年4月20日死去。4月24日、ボーイスカウト日本連盟葬を執行した。
「手の合図」のこと。
号令をかけずに手の動作だけでスカウトに行動を指示する方法。
気を付け、休め、すわれ、わかれ、集合隊形の各種サイン(円形に集まれ、U字形(馬てい形)に集まれ、縦隊に集まれ、横隊に集まれ)などがある。
見た目にもスマートであり、スカウトに注意力を養う訓練にもなる。